TAKASHI ARAI PHOTOGRAPHY JOURNAL TAKASHI ARAI PHOTOGRAPHY JOURNAL



毎年この日、アメリカのシンガー・ソングライター、Mary Gauthierの「Can’t Find the Way」をかけることにしている。この曲は、2005年ハリケーン・カトリーナによる洪水で家を失い、途方に暮れる人々を歌った歌だが、これを聴くと6年前の生々しい感じが蘇ってくる。

ところで安倍晋三はきょう例年の声明発表をとりやめ、東日本大震災に関連する災禍は全部終わった、ことにするらしい。無能が極まった首長の演説など一秒も耳に入れたくないが、とはいえ、こうした行動から伝播するメッセージは明白かつ強力と言わざるを得ない。
そこにいれば40秒で即死する穴(福島第一原発2号機の底にぽっかりあいた、文字通りの穴)が胴体にぽっかりと開いたこの国では、健康と美容、安心/安全、毎日ひねり出される怪しげな養命術には異様なまでの執着を費やしながら、闘わなければ明日死ぬかもしれない脅威は見ずに暮らしていける。
視界に入らないようコントロールされることで、ほとんど既に「いないこと」にされている、支援打ち切り目前の仮設住宅に暮らす人々、避難指示解除になっても帰れず/帰らず流民となりつつある汚染地域の家族、ビザ延長の甘言に騙されて除染作業に狩り出された難民や、廃炉作業に従事する外国人労働者やいわゆる「原発ジプシー」の日雇い労働者は死んでも構わない、何か普通でない人間(Homo Sacer)とでもいうのか。

「もう一度地震でも来なければ、この国は変わらないかも」そう言い放つ人に会うことがあるが、彼ら/彼女たちは自分自身が命や家を失ったり、原発事故で難民化するかもしれない、十分に高い可能性については想定していないのだろうか──もとより「被災者」「仮設住宅」「難民」といった言葉の運用が、さらに心理的排除を容易にしてきた矛盾をどう解決していけばよいのか。

社会的包摂、とでも言っておけば気分がよいかもしれない。でもそれが大多数が小数を包摂する仕組みである以上、むしろそこに数々の搾取や新しい排除の構造さえ生まれかねない(Cf. 介護留学生生活保護ビジネスetc.行政主導の「社会参加型」アートなんて輪をかけて胡散臭い)。
今ふたたび必要なのは共鳴(resonance)である。共鳴は、余剰の下降運動である以上常に期限付である思いやり(thoughtfulness)とか同情(sympathy)とは逆のもので、自己中心的で自発的な剥き出しの生(zoe)の衝動だから各人にそれなりのコストを要求する。共鳴は、周りがどうであろうとも関わらず、ほかならない<このわたし>のいてもたってもいられない身体の状態のことだ(車に轢かれた人が「痛い!」と叫ぶことに外聞もなにもあるだろうか?)。

震災後、東京など大都市を中心に爆発した反原発運動は正にその共鳴が原動力だったのであり、たとえば原発被災地域で苦慮する人々に対するシンパシーなどでは決してないのだ、と当時感じたことを覚えている。つまり、首都圏にも拡がった汚染や、目を向けてみれば意外に近いところにある原発/各関連施設の実態に度肝を抜かれ、自分たちに火の粉が降りかかっていることを察知してはじめて、各人が相当のコストを払ってデモに参加したのである(勤め人が仕事上がりの数時間を差し出す、というのは、家父長制、年功序列、長大な時間外労働など、高度に洗練された統治システムが張り巡らされたこの国では、とりわけ驚くに値する行動だった)。発生から十年も経ってようやく水俣病が認知されるようになった原動力が「国民の、生存の危機感の反応」(石牟礼道子『苦海浄土』第七章)だったように、人はみずからの生の危機を触知してはじめてついに、個別に共鳴を開始する(ちなみにそこに熟慮というプロセスが差し挟まれることはないし、共鳴が常によい結果を呼ぶとは限らない。たとえば移民排斥を掲げるヘイト・デモは、生存の危機に対する恐怖を他者へ転化しようとする衝動が共鳴した結果)。

国家はそういった共鳴がもたらしかねない不確実性(もっぱら市場に対する)の威力についてよく知っているから、あらゆる手でそれを妨げようとしてきた。いま取り沙汰されている共謀罪などはあまりにも時代遅れで実際に運用困難な代物と分かっていながら、それをちらつかせるのは、たぶん幼稚な心理戦のつもりなのだろう。あるいは社会運動は共謀によって組織される、という完全に間違った解釈を信じ込んでいるのだとすれば、おめでたい話である。
たとえばインターネットの空間はいちいち規制や誘導などしなくとも、ありとあらゆる立場のあらゆる見識が散乱していること、そのこと自体によって<このわたしにとって>新しい諸体験と諸感覚を陳腐化し、あらゆる共鳴を吸収・消去する無音響室として機能している。そういう意味では、SNSでいわゆる陰謀論をシェアしたり「何も報じないマスコミ」に対する怒りを表明すること(こうした怒りは直接テレビ局に伝えた方がよいし、実際電話でもしてみると結構面白い)、それ自体が雑音(noise)として働き共鳴(resonance)を中和してきたことについて、一度よく考えてみなくてはならない(自戒をこめて)。

いつでも、同時代の規制(というよりも自主規制)対象、非常識/変態的なふるまい、流通していないもの/情報といった場所、移民や流民、障害者や精神障害者といった人々からはじめるほかないとしても、どこにそうした場所や人と、大多数であるがゆえに無感覚を享受するわたしたちとの、緩衝地帯のようなものが存在するのか。たぶん、そのような緩衝地帯はこの国、少なくとも東京都心にはもうない。10年前までは野宿者や外国人労働者たちが集まる公共空間が点在した東京だったが、再開発を口実に着実にそうした空間を消滅させていき、さらに2020年のオリンピックを契機についに東アジア最大の驚異のディストピアとして完成に至るだろう(いま、ゴールデン街のような、かつて日雇い労働者や無宿人で賑わった、低級な飲み屋街に人気があつまるのは、その最後の徴候である。そこにあるのは無害なノスタルジーなどではなく、いまやわたしたちが貧困の文化(そういうものが仮定されるとすれば)をも快適に消費できるほどに、その街区からマイノリティたちの姿が消し去られてしまったからに過ぎない)。

Mary Gauthierが歌うように、どこに道を見いだせばいいのかわからない/Can’t find the way、でも、その主語は歌われていないことに気づく。
確かなのは、いつまでもわたしたちが道を切りひらく主役であると思いこんでいる間は(「今○○になにができるか」などと不遜にも問いかけてしまううちは)とても無理だということ、そして、コストもかけずただ逡巡し机上の議論にふける間にも、いつかわたしたちの外側、これまでなきものにしてきたものたちの間に生まれいずる共鳴によって、わたしたちにとって住みなれた世界が木っ端微塵に砕け散るかも知れない、ということへの怖れ、あるいは倒錯した希望だけなのだろうか?

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一昨日2月26日、横浜市民ギャラリーあざみ野での個展「Bright was the Morning ― ある明るい朝に」が無事、終了しました。
これまで、国内の展示は活動の一端を少しずつ見せる規模/形式でしたが、今回は、各シリーズがネットワークされた状態で提示できる、初めての好機になりました。
ご来場いただいた皆様、学芸員の天野太郎さんや対談いただいた写真家の石川真生さんはもちろんのこと、横浜市民ギャラリーあざみ野スタッフほか開催に向けて尽力いただいたすべての方々、また作品制作に協力いただいた数えきれない程の皆様に、心から感謝いたします!

[メディア掲載]
マグカル「19 世紀の技法「ダゲレオタイプ」で写す日常と現実、未来」(齊藤真菜さん)
毎日新聞『「新井卓 ある明るい朝に」 写真の中の「時間」』(高橋咲子さん)
朝日新聞「(つくる・かたる)時間を凝縮し写す「鏡」新井卓@横浜」(丸山ひかりさん)
神奈川新聞「若者たちから未来を予見 写真家・新井卓 会場で体験して」

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北アメリカ(十)カボチャの名前/前編
新井卓

(『小さな雑誌』84号(2015年10月号)より転載)

──一発の原子爆弾で街が見渡すかぎりの焦土と化した翌年、広島では、カボチャが不思議によく採れたのだという。
敗戦間際、アメリカ最新鋭の爆撃機・B29は、ときおり不可解な小数行動をとることがあった。おおかたは偵察と思われたが、まれに、凄まじい威力の爆弾を一発だけ、投下することがあった。
敗戦の前日、八月十四日に春日井に落とされた爆弾について調査していた市民団体は、米軍の出撃記録に当日のデータがないことに気づく。それは、マンハッタンプロジェクトの一環として、第五〇九混成部隊によって極秘裏に行われた爆撃だったのだ。通称「カボチャ爆弾」は、実際の原爆投下に先立ち米軍が試験的に落とした、四十九個の模擬原爆のことである。爆弾は、空中特性を調べるため長崎型原爆と同じ形状、重さで作られていた。「カボチャ」は、丸い形と黄色の塗装から連想したと思われるが、その名前と裏腹に、爆弾は一発で一区画を灰燼に帰し、何人もの命を奪った。

戦争を繰り返してはならない、忘れてはならない、という。しかし、わたしを含め現在この国にくらすほとんどの人間は、従軍して人を殺したことはおろか銃を握ったことすらない。したことがないことを、どうして反復し忘れうるというのか。もし<戦争>というものを、ごく一部でも疑似体験できるのだとすれば、何かが変わるのだろうか?
二〇一五年秋、テキサス州サンアントニオでの滞在制作の好機を得て、短い映画を撮ることにした。第二次大戦中の爆撃機をチャーターして、実際にカボチャ爆弾を投下する──ただしその爆弾は、49個の、ほんもののカボチャである。

十月のよく晴れた日、サンアントニオから北へ二時間ほどの距離にある、ジョージタウンを訪れた。当地を拠点にするデビルドッグ中隊は、B25・通称デビルドッグ(※)を現在でも維持する、数少ない非営利団体だ。昼前に市営空港のハンガーに着き、渉外担当のイワノフ夫妻に挨拶すると、会議室に案内された。その日は月例の昼食会議らしく、メグというボランティアの学生がピザの注文を手際良くあつめていた。中隊の主要メンバーは皆よく日焼けしたマッチョな中年男たちで、それに、異様な緊張感を漂わせる凄腕パイロット、ベスを加えて円卓を囲んでいると、私だけ宙に浮いているような落ち着かない気持ちになった。会議では主に、予算調達のため、小学校の催しで上空を飛ぶとか、だれかの結婚式で空から花を撒くといった、なにやら平和な報告がつづいた。
議題が尽きたころ、ピザが届き、何か頼みごとがあるなら今話すといいと言われた。刺すような視線を感じながらスライドの準備をしていると、上半身に嫌な汗がにじんできた。テキサスといえば、軍属の人間がもっとも多い州の一つだ。これからやろうとしていることを話せば、この部屋から叩き出されるかもしれない。
無駄な小細工はよして、単刀直入に話すことにした。──太平洋戦争中、原爆の模擬爆弾・通称パンプキンというのがあって、本土に四十九個落とされ人が死んだ。自分の祖父は海軍大尉で、ラバウルでB25に苦しめられ、義理の父は小学生のころ機銃掃射をうけた。それでも自分には戦争がよくわからないから、人を殺さない方法で爆撃を体験できないかと考えている。そこでカボチャを四十九個、爆撃したいので、B25と爆撃可能な土地を貸してほしい。──そこまで一気に話すと、一瞬の沈黙ののち、男たちがどっと笑い崩れた。「燃料代くらい出してくるんだろ?」「マークの農場に落とせよ」「カボチャの種は抜いてくれ、畑に勝手に生えてくると困るから」
そしてわずか十五分で、短編映画「49パンプキンズ」の撮影は決まった。

(つづく)

※「デビルドッグ」は硫黄島で撃墜された海軍機を模して、他の機体をオーバーホウルしたB25である。カボチャ爆弾は、実際はB29から投下された。現存する飛行可能なB29は、NPOコメモラティヴ・エア・フォースが保存する「フィフィ」一機のみ。
B25: Devil Dog
B25・通称デビルドッグ、映画『49パンプキンズ』より

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Takashi Arai Solo Exhibtion: Bright was the Morning at Yokohama Civic Art Gallery Azamino

あざみ野フォト・アニュアル
新井卓 Bright was the Morning ― ある明るい朝に

2017年 1月28日 [土] → 2月26日 [日]
10:00~18:00 | 会期中無休
横浜市民ギャラリーあざみ野 展示室1 | 入場無料
主催 | 横浜市民ギャラリーあざみ野(公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)
後援 | 横浜市文化観光局

Azamino Photo Annual
Takashi Arai: Bright was the Morning

January 28th (Sat) – February 26th (Sun), 2017  |  10:00AM – 6:00PM
Yokohama Civic Art Gallery Azamino, Gallery 1  | *Free Admission 
1-17-3 Azamino-Minami, Aoba-ku, Yokohama, Kanagawa 225-0012
Tel. 045-910-5656
https://artazamino.jp/english/

本展は、シリーズともなっている現代の写真を紹介する「あざみ野フォト・アニュアル」企画展の第7回展です。今回は、写真史最初期の技法、ダゲレオタイプ(銀板写真)を使って制作し、2016年に第41回木村伊兵衛写真賞、日本写真協会賞新人賞(同協会主催)、神奈川文化賞未来賞を続けて受賞するなど、現在注目の写真家、新井卓(あらい・たかし)の写真を展示します。
現代社会がアナログからデジタルへと移行する中、カメラの機能もまた、フィルムを介在しない、そして、様々な状況にも即座に対応可能なデジタルのテクノロジーが搭載されたものとなっています。進化し続けるデジタル・カメラの時代にあって、新井は、写真の原点とでも言うべきダゲレオタイプの技法を選択します。複製技術の代名詞でもある写真ですが、ダゲレオタイプは一枚の原板が作品となります。銀板上に定着されたポジティブ画像を得るために、天候等の条件によっては長時間露光を必要とするダゲレオタイプは、事象の瞬間を捉えるというよりは、一定の時間の積層がイメージに含まれることになります。新井は、このダゲレオタイプの特徴を活かしながら、東北の震災や広島、長崎の原爆投下といった時間の幅を意識させる同時代的、歴史的な事象を作品の対象としてきました。
また、今回は、新作として若い次世代の人々のポートレイトが出品されます。多感な時期の若い人々との対話を通しながら撮影されたこれらのイメージは、ダゲレオタイプの技法を採用しつつもストロボを使用し、敢えて彼ら彼女らの一瞬を捉えようとしています。技法的にもあるいはモチーフとしても新たな試みがここには見られ、新井作品の今後の方向性の一つが示されたものとなっています。

※1 詳細はこちらをご覧ください
※2 チラシのダウンロード

Bright was the Morning

Man obtained the nuclear power for the first time at Trinity Site in New Mexico in the early morning of July 16th, 1945. Marking the dawn of the Atomic Age, the flash of light is said to stop a blind girl, who was hastily traveling home 50 miles away from the ground zero. She turned her head and asked: “what was that?”
Through the nuclear arms race during the Cold War, radioactive fallout contaminated all over the globe. Plutonium has a half-life of 20,000 years, and for Uranium-235, it is 700 million years. We do not even know what the world was like some hundred years ago, so how could we assume that we are capable of imagining and comprehending such a long span of time, which feels to have no end?

Only about seventy years have passed since Hiroshima and Nagasaki, followed by Daigo Fukuryu Maru Incident, Chernobyl and Fukushima. We have just begun to live in an age of new mythology.
In her book Chernobyl Prayer, winner of the Nobel Prize in Literature, Svetlana Alexandrovna Alexievich writes, “a new history of feelings has begun… Chernobyl has transferred us from one period to another.”
Stepping into the age of new mythology – we have been waiting so long for the advent of a new language to describe it.

In May 2016, the sitting President of the United States paid a visit to Hiroshima for the first time since the end of World War II.
Standing right beside the defense line in Hiroshima Peace Memorial Park, we stared at live coverage on cellphone screens in hands and waited for his words. Under the endlessly blue sky and the scorching sun, we recalled the day, which we never knew. “Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning…” President Barack Obama’s speech was beautiful and somehow touching, however, it was not even close to new words that we are looking for.

Words to describe the new era should be strong. As Alexandrovna Alexievich or Michiko Ishimure, for instance, wrote down with great sensitivity individual memories of each person, which could be called “micro-myths for the future”, the strength is the power that arises quietly from fine details and gradually diffuses into our souls.
Since the days of madness glared by thousands of manmade suns, haven’t we been waiting for the day to come?
Born amidst the everlasting blight, we take the first step, and listen to stories of yours and mine. Under the darkening sun, we search for new words, before the night falls, while there is still light.

– Takashi Arai


[関連イベント]

○アーティストトーク
1月28日[土] 13:00~14:30
出演:新井卓(企画展出品作家/写真家)
定員:80名程度
※参加無料、要事前申込(先着順)
※保育あり

○アートなピクニック
―視覚に障がいがある人とない人が共に楽しむ鑑賞会―
2月18日[土] 14:00~16:30
会場:展示室1
対象・定員:視覚に障がいがある人10名
視覚に障がいのない人15名
締切:2月8日[水]必着
※参加無料、要事前申込(応募者多数の場合抽選)
※最寄のあざみ野駅までお迎えが必要な方は申込時にご相談ください。
※保育あり

○対談「ダゲレオタイプに現れる時間」
2月4日[土] 14:00~15:30
出演:新井卓(企画展出品作家/写真家)、日比谷安希子(当館コレクション担当)
会場:3階 アトリエ
定員:50名程度
※参加無料、要事前申込(先着順)
※保育あり

○対談 新井卓×石川真生
2月25日[土] 15:00~16:30
出演:新井卓(企画展出品作家/写真家)、石川真生(写真家)
進行:天野太郎(当館主席学芸員)
定員:80名程度
※参加無料、要事前申込(先着順)
※保育あり

○学芸員によるギャラリートーク
2月12日[日]、2月26日[日]
各日14:00~14:30 会場|展示室1
※参加無料、申込不要

【お申込み・お問合せ】
〒225-0012 横浜市青葉区あざみ野南1-17-3 アートフォーラムあざみ野内
横浜市民ギャラリーあざみ野 企画展担当
TEL 045-910-5656 / FAX 045-910-5674

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北アメリカ(九)ミセス・レイコ・ブラウン
新井卓

(『小さな雑誌』83号(2016年8月号)より転載)

 二〇一五年九月、オハイオ州デイトンで慌ただしくB29<ボックス・カー>の撮影を終えてから、テキサス州サン・アントニオへ飛んだ。美術団体アートペイスの招聘で、三ヶ月間の滞在制作を行うためだった。
 荷を解く暇もなく、地元の人々向けに短い発表の場が設けられ、そこでケイティに出会った。トビン舞台芸術センターのスタッフをしているという彼女は、会うなり「ヒロシマのキノコ雲を見たっていう知り合いがいるんだけど、興味ある?」と言った。驚いて何回か聞き直したが、どうやら、戦後サン・アントニオに移住し今も暮らしている広島の被爆者がいる、ということらしい。
 ケイティに繋いでもらって、よく晴れた月曜日、サウスウエスト工芸大の社会人向け陶芸教室を訪ねた。
 明るい陽光が一杯差し込む教室では、七、八人の男女が作業台やロクロに向かって、めいめい作品作りに没頭していた。湿った粘土の匂いに、学生時代の陶芸部のことを思い出してぼんやりしていると、向こうから白髪の女性が近づいてきた。「タカシさん?あなた!ずいぶん待ってたのよ!」淡い色の瞳で、カラフルな開襟シャツを着た彼女は、一見すると日本人とは分からない風貌だった。にこやかに、よく響く声で話す彼女は、全身から、何か強烈なプラスのエネルギーを発散しているみたいだった。約束の時間ぴったりのはずだったが、いちおう遅くなったことを詫びて、作業台の椅子に腰掛けた。
 陶芸家の彼女は、足を悪くしてから一度は引退を考えたものの、長年の友人であり工芸大で教えるデニスの強い勧めもあって、今もこの教室で制作を続けている。

 ミセス・レイコ・ブラウンは東京の蒲田生まれ。一九四五年八月六日、疎開先の山口から歳の離れた妹と祖母と一緒に東京へ帰る途中、キノコ雲を見た。
 その日の早朝、彼女は幼い妹を背負って上りの汽車に乗った。広島をいくらか過ぎたあたりで、汽車は突然、急停車した。主要駅との通信はなぜか遮断されていて、何が起こったのか誰も分からなかった。車掌はそのまま車内に残るよう指示したが、彼女はほかの客とともに外へ逃れた。なにしろ八月のうだるような暑さの中で、客車はおそろしく蒸し暑かったから。広島の方角に、見たこともないような形の雲が空に立ちあがっているのが見えた。
 彼女によれば、死の灰は、乗客たちのところまでも届いたのだという。そのせいで、甲状腺を患ったのだ、と。若いころに甲状腺の大部分を失ったレイコは、低カルシウム血症で生死を彷徨い、以来、常人の許容量をこえる甲状腺ホルモン剤を服用しつづけている。

 デニス、それにレイコの親友のジュリアとベトナム料理のランチに出かけ、琉球の陶芸の話になり、縄文土器の話になり、色々な話をきいた。ジュリアは若いころサンフランシスコに住んでいて、写真界の巨匠アンセル・アダムス邸でメイドをしていたのだという。「週末のパーティでアンセルはいつもピアノを披露していたのよ。それは素晴らしい演奏だった。」
 レイコには、かつて若い日本人医師の婚約者がいた。戦後、まだ海外旅行などめずらしい時代だったが、結婚前の最後の自由とばかりに、文通相手の家族を頼ってオハイオ州に旅したレイコは、そこで一人のテキサス青年に出会う。一目会うなり、二人はもう恋に落ちてしまっていた。そこから手を取り合って逃げるように西へ、当時、国際結婚が認められていた唯一の州、カルフォルニアで、深夜に教会の神父をたたき起こして宣誓すると、市役所へ駆け込んだ。いつまでたっても帰ってこない娘を案じて父親が連絡しても、婚約者がはるばる迎えにきても、もう公的に結婚してしまった二人を、誰もどうすることもできなかった。それから、未知の土地、サン・アントニオで、ミセス・レイコ・ブラウンの長い戦後が始まった……。
 恐ろしく「チューウィーな」(噛みごたえのある)固揚げのスプリングロールを、喉につかえつかえ呑み込みながら、彼女たちのあふれ出してくる物語を唖然として聴いた。どうもこれは毎週、陶芸教室に通うことになりそうだ、と思った。


ミセス・レイコ・ブラウン、サン・アントニオ、テキサス
Mrs. Reiko Brown at Southwest School of Art, San Antonio, TX.
銀板写真(Daguerreotype)、25×19cm
2014

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北アメリカ(八)デイトンの亡霊たち/後編
新井卓

(『小さな雑誌』82号(2016年6月号)より転載)

 二〇一五年秋、長崎に原爆を投下したB-29:ボックスカーを撮影するため、国立アメリカ空文博物館に通った。オハイオの連なる段丘は初秋の光に美しく輝いていたが、私の向かう先は薄暗い洞窟(ガマ)みたいな格納庫(ハンガー)だった。
 博物館では、ケン・ラロックという広報スタッフが何かと気を配ってくれた。ケンは元空軍所属カメラマンで、ソウル・シンガーの奥さんと一緒に、嘉手納に一年間赴任したことがあるという。数日が過ぎても上手く撮ることができず、B-29の脇のベンチに座り込んでいると、ケンがやってきた。客が少ない時間を見計らって、展示柵の中で撮らせてくれるという。──本当はまる一日付き添いたいけど、悪いね、俺もパートタイムだから。彼は肩をすくめながら展示柵を動かして、私を中に入れてくれた。
 機体に肉薄したところで何も撮れずに、機体のまわりを何周か巡った。それから、開け放たれたままのボム・ベイを覗いてみた。そこはひんやりとしており、粉っぽいむせ返るような闇が、ぽっかりと口を開けていた。ちょうど一畳かそれくらいの開口部に半身を突っ込んだまま、三六〇度見渡しても、何も見えなかった。
 その矩形にはかつて、確かに、原子爆弾が嵌めこまれていたはずだ──それはいわば七万数千余人の死の雌型である。ボックスカーの胎内で、長崎で出会った被爆者たちの声と顔が、異様な鮮明さで脳裏に蘇ってきた。何かが血のように流れて冷えていくのを感じながら、見てはいけないものを見た、立ってはいけない場所に立ってしまった、と、思っていた。

 やがて機体の周囲に人の気配が満ちて、ふと我に返った。
 ボム・ベイから顔を出すと、博物館のボランティア・スタッフが、団体客に解説をしているところだった。──これが、長崎に原爆を投下し、第二次大戦を終わらせた飛行機です。日本本土を直接空爆するためには、長距離かつ高高度を飛行する必要があり、B-29は、そのためキャビンを与圧する機能を備えた世界初の飛行機です。この技術は現在でも、みなさんが日頃利用する旅客機に使用されているのです……。
 空爆のテクノロジーには、高く遠く、手の届かない安全地帯から、敵を効率的に攻撃することが求められる。アメリカ人の半数以上は(少なくとも私が直接会って、聞いた範囲では)日本への原爆投下に肯定的だ。被爆者たちの境遇には同情を示しつつも、結果として日米両国の死者の数を減らすことに寄与した、いうのが一般的な見解である。
 戦争が資本主義を育み、資本主義が戦争を必要とした、と言ったのはヴェルナー・ゾンバルトだったが、私たちはいつから、殺戮を経済のように語るようになったのか。大勢が救われるのだから犠牲に、と言われたら、私やあなたは、自分や肉親の命を差しだすのだろうか。
 巨大なものについて語ろうとするとき、私たちは「私たち」という架空の主語をただ、弄んでいるにすぎない。もはやオートマトンと化した産業や市場経済に呑み込まれながら、なぜ人は個の集合としての集団や国家のイメージを幻想しつづけられるのだろうか?
 第二次大戦後も途切れることなく戦争を続けてきたアメリカで、そのことについて疑問を投げかけた者は多くない。たとえばエノラ・ゲイに随行したB-29の機長、クロード・イーザリーを除いては。

(つづく)

B29: BocksCar

B29:ボックスカーの多焦点モニュメント、マケット
銀板写真(ダゲレオタイプ)、73x220cm
2014

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本日はお集まりいただきありがとうございます。
まず何よりも、熊本地震で亡くなられた方々にお悔やみを申し上げるとともに、被災した方々に一刻も早く平安な日常がもどるよう心からお祈りいたします。また、このような異常な状況下で川内原発の運転を継続する九州電力と日本政府に対し、福島で原発事故の余波を目の当たりにしてきた一人の人間として、強く抗議します。

人類がはじめて核エネルギーを手にしたのは1945年7月16日未明、ニューメキシコ州トリニティ・サイトでのことでした。冷戦期を経て地球上に拡散した放射性物質の半減期は、プルトニウムで2万年、ウラン235で7臆年。数百年まえのこともわからない私たちに、その永遠ともいえる時間を理解し想像する力があるのでしょうか?広島、長崎、第五福竜丸、チェルノブイリ、福島を経てわずか70余年。わたしたちは、いま、あたらしい神話の時代を生き始めたばかりなのかもしれません。

ノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシェービッチは、『チェルノブイリの祈り』のなかで「感覚の新しい歴史がはじまったのです・・・チェルノブイリは、私たちをひとつの時代から別の時代へと移してしまったのです。私たちの前にあるのはだれにとっても新しい現実です。」と述べています。
新しい神話の時代に必要なのは、それを書き記すための、新しい言葉です。
そして、新しい言葉は、強いものでなければなりません。
アレクシェービッチや、たとえば石牟礼道子が一人ひとりの記憶──それは「小さな未来の神話」といっていいのかもしれません──を繊細な手で書きつづったように、新しい言葉の「強さ」とは、細部から生まれやがて私たち一人ひとりの魂のなかに、それと知れず拡散していく力のことです。

私にとって表現することは、新手の産業に成り下がった美術マーケットに与するためでもなく、教養や経済のヒエラルキーのなかでしか存在しえない、抑圧のためのモニュメントを生みだすことでもありません。それは私たち自身や、次につづく世代のために、どうしても必要な、生存のための抵抗の手段のひとつなのです。
テクノロジーが細分化し、自動化した経済システムのなかで人間が置き去りにされた時代。政治や宗教が新たな対立や抑圧しか生みださないのだとすれば、おそらく芸術だけが、まったく無関係に見える二つの時間と場所、二つの出来事、異なる人々を結びつけ、人間の魂を回復するための力を、いまだ持っているものと信じます。

表現の規制、あるいは自主規制が常態化してしまった危機的な日本の現状ですが、大切な友人たちとともに、これからも緊張感を持って現場に立ち続けたいと思います。
ご静聴いただき、ありがとうございました。

(謝辞、略)

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北アメリカ(七)デイトンの亡霊たち/前編
新井卓

(『小さな雑誌』81号(2015年4月号)より転載)

二〇一四年秋、東京からオハイオ州デイトンへ飛んだ。暦が一日戻って、アメリカに入国したのは九月十一日だった。
空港でレンタカーを拾って、ライト=パターソン空軍基地へ。ハイウェイに沿って、ぽつりぽつりと星条旗が翻っているのが遠くまで見え、そのどれもが9.11を悼んで半旗になっている。秋の淡い青空の下で、街はこうべを垂れ祈っているのか、半分眠っているのだろうか。
デイトンはマイアミ・ヴァレイの中心都市で、ライト兄弟の出生地として知られている。丘がちな土地に街区と農地が平坦に拓かれていて、中心都市とはいっても、これといった産業もないのどかな街である。
街の何分の一かを占める空軍基地の一角に、世界最大の航空博物館、国立アメリカ空軍博物館が置かれている。その三六〇機を超える膨大なコレクションの中に、B-29重爆撃機・通称<ボックスカー>があった。
一九四五年八月九日未明、機長のチャールズ・W・スウィーニー少佐率いる乗組員は<ボックスカー>でティニアンを出発、長崎上空で午前一〇時五八分(*1)に原爆<ファットマン>を投下した。

二〇一一年の福島から時間の糸を逆に手繰って、長崎の時計の次にたどりついたモニュメントが、この<ボックスカー>だった。この爆撃機を多視点のダゲレオタイプで撮影することが、今回の旅の目的である。
デイトン滞在にあてた一週間は毎日、開館から閉館まで空軍博物館で過ごした。
館のコレクションは時代毎に分けられ、それぞれ一つの巨大格納庫に陳列されている。ライト兄弟のミリタリー・フライヤー、カプロニのCa3木製爆撃機に始まり、両大戦を経て冷戦時代へ──最後は円筒形の建屋(サイロ)に、アポロ計画の展示とともに、退役したICBM(大陸間弾道ミサイル)が並んでいた。サイロの漆黒の闇の中に数十メートルのICBMが何柱も屹立している姿は、あまりにも終末的な光景だった。
戦慄し、わけもなく涙が出てくるのを押さられなかった。それがもし畏怖の念、というものならば、神や信仰という観念は、無用にされてしまったのだろう。ギリシャの神々の名前を冠された、これらの殺戮兵器によって。

ICBMのサイロから<ボックスカー>に戻ってくると、機首に描かれたポップなイラスト(ノーズ・アート)や昔のアメ車を思わせる流線型の機体はすっかりノスタルジックに見え、どこか微笑ましくさえあった。ICBMとB-29のあいだを往復しながら、何日も見続ける視線は銀色に輝く<ボックスカー>の表面を上滑るばかりだった。
沖縄をのぞけば、日本人の時計は敗戦の瞬間から止まっていたのかもしれない。
戦後七〇年という時間のあいだに、途切れることなく戦争はつづき、その度に、殺戮のテクノロジーは取りかえしのつかない程先に進んでしまったのだ。
ICBMの発射解除コードは、ながらく八桁の「ゼロ」だったという。〇〇〇〇〇〇〇〇……どこまでもつづくゼロは、広島の、長崎の、死者たちの時間なのか。あるいは空の千の太陽のごとく輝けるヴィシュヌの降臨によって、ついに諸世界が回収されるという、来たるべきその日の神話とでもいうのだろうか。(*2)

*1 ボックスカーに同乗した原爆取扱責任者アツシュワースの記録による。
*2 インド叙事詩『マハーバーラタ』中の『バカヴァット・ギーター』(神の歌)マンハッタン計画を指揮した物理学者、ロバート・オッペンハイマーが度々引用している。

ファルス・ナンバー5 (マーティン・マリエッタ SM-68A/HGM-25A タイタンI), マケット
Phallus #5 (Martin Marietta SM-68A/HGM-25A Titan I), Maquette
銀板写真/Daguerreotype、7×18cm
2016

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2016年3月16日〜19日の三日間開催されたDubai Photo 2016の準備のため、会期4日前から18日までドバイに滞在した。
今年が第1回目のDubai Photoは、23ヶ国、129人の写真家が国別に区切られた空間で展示する写真祭である。チーフ・キュレーターZelda Cheatleの総指揮のもと各国1名のキュレーターがそれぞれの国の展示構成を行った。ドバイ首長、H.H. Sheikh Hamdan Bin Mohammed Bin Rashid Al Maktoumの主催となるこの大規模な展覧会は、完全非営利であり、たった数日間のオープン期間のためにデザイン・ディストリクトの一角に仮設美術館を作ってしまう、という世界でも類をみない内容といえるだろう。

日本スペースのキュレーションは、写真批評家の竹内万里子氏が担当した。参加写真家は、安井仲治、大辻清司、森山大道、石内都、志賀理江子、石川竜一、新井卓の7名(今回は過去/現在の写真家を混在させるというのがDubai Photo全体の基本計画だったとのこと)。
他各国の展示は水準もまちまちで、過去/現在の連続(または<非>連続)性をうまく空間のなかであらわしきれずアートフェア・レベルのものも少なくなかったが、Dayanita Singhを中心に完璧に組織されたインドの展示、UAEの規制をかわしながら、社会的問題と写真との関係の糸口を見せようとする南アフリカの展示などが記憶に残った。

今回、作家はあまり来ていないようだったが、設営現場とその周辺では各国のキュレーターたちや、World Photo Organizationの職員たち、現場を支えるインド人たちの、フラットで密な交流が生まれた。

潤沢な海底油田に支えられた典型的なレンティア国家であるドバイは、驚くほど治安がよく、どこに行っても平和な空気が流れていた。摩天楼ブルジュ・ハリファや、圧倒的人工物のパーム・ジュメイラなどは、夜間電飾で輝く姿は映画『ブレード・ランナー』を彷彿とさせる威容を誇っている。しかし、『ブレード・ランナー』で描かれたような、圧倒的な繁栄が生みだす陰りと腐敗、そういったものは滞在のあいだ、どこにも見つけられなかった。

人口の7割以上が外国人で、さらにその大半を占めるのはインド、バングラデシュ系の労働者たちである。地方から出てきて、低賃金で建設現場に従事する人も少なくないと聞く。しかし、旧市街を夜中に歩いても、郊外に足を伸ばしても、人々はにこやかに行き交うばかりで、インドの街々を旅するときのような、そこはかとない緊張を感じることはない。また、しばしば欧米の国々で感じる、アジア系の異邦人としての所在のなさ──それはあまりにも慣れっこになっているために、旅から帰ってきて初めて気づく、という場合が多いのだが──を意識する場面はどこへいってもない。
そうした印象は、ある日車を走らせて東海岸の王国フジャイラまで出かけたときも、少しも変わることはなかった。

3月14日の朝、昨日まで本当に間に合うのだろうか?という体裁だった会場は(メインの入り口の一棟は、設営作業前日の大雨の重みで倒壊したのが、また元通りに修復されていた)、綺麗に掃き清められ全てが準備万端に整っていた。
この日はプレス対応とVIPオープニングということで、会場にいるように言われたので1日、訪問客の相手をした。オープニングの挨拶で日本スペースの展示を絶賛していたH.E. Ali Bin Thalith殿下を初め、イスラム、欧米、アジア、アフリカ、オセアニアの各紙が取材に訪れ、熱心に話を聞いていった。初めてのイスラム圏だったので、なかでもUAEや、セルビア系ボスニア人のジャーナリストとの対話できたことが嬉しかった。
日本からは一紙も取材に来ていない。日本という国のメディアはもう少し、世の中の趨勢というものに敏感でもいいのではないかと思う(ちなみに、石内都さんがハッセルブラッド賞をとったときも何一つ掘り下げて報道されていないし、某写真雑誌でも小さな1コーナーが割かれたのみだった。昨年ボストン美術館で開かれ現在Japan Society巡回中の『In the Wake: Japanese Photographers Respond to 3/11』も然り)。Paris Photoのように放っておいても名の知れた商業イベントにばかり日本人が群がっても、いまさら時代遅れだ。

いずれにしても、西欧中心でない(もちろん限定的な意味であるにしても)こうした試みがドバイという場所で開かれることについて、率直に、可能性を感じた数日間だった。

Wallpaper* “Photo finish: Dubai hosts inaugural photography exhibition” 

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もう10年来のつきあいになる友だちの日本画家、藤井健司さんの父上から、受賞のお祝いに、と思いがけない手紙と贈り物をいただいた。

中身は『LIVE AT MOERS FESTIVAL』(メルス・ニュー・ジャズ・フェスティバル’80)高柳昌行+New Direction UnitのCDリマスター版。
1980年5月26日に西ドイツ(当時)メルスで行われたフェスティバルのライヴ録音で、プロデュースはThree Blind Miceレーベルの藤井武氏(父上)。ちなみに、収録曲はA面が1.墓碑銘(BOHIMEI)、2.RESISTANCE 1、B面が1. MASS HYSTERISM、2. SUBCONCIOUS LEE という内容である。

このCDは実は以前から聴いていたのだが、解説もろくに読まずに、ただ漠然と一曲目『墓碑銘』で繰り返される朗読の冒頭が「アイキヒクボヤマ」と聞こえて気持ちわるいな、と思っていた(あまりにもぼんやりとしていた自分が腹立たしい)。
あらためて手紙を読んで、はっとしてライナーノーツに目を通せば、輻輳する朗読は、ドイツ現代音楽家ヘルベルト・アイメルトの『久保山愛吉の墓碑銘』”Epitaph Für Aikichi Kuboyama / Sechs Studien“(1960-1962)と、金芝河のテキストだという。

アイメルトの作品は、高橋悠治さんが『福竜丸だより』(390号、2015年11月)で書いていたまさにそのことで、1954年の第五福竜丸事件で亡くなった無線長・久保山愛吉の墓碑に刻まれた日本語を、ギュンター・アンデルス(長崎に原爆を投下したB29編隊の機長、クロード・イーザリーとの往復書簡『ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙』 ちくま書房(1962)の思想家)がドイツ語に訳したものではないか、ということだった。

1980年、孤高の音楽家の仕事から、時代の精神とその連帯を思う。

以下、ライナーノーツより:

「政治と音楽ということについて、過敏なほどに警戒する風土が日本にはあると思うが、ぼくとしてはそれは、政治にも音楽にもあまりにも鈍感だからではないだろうか、としかいいようがない。」(「解説」青木和富)

「武器商人と手を結び一身の安泰と名聞名利を求めるのが音楽家でなく、かつて創作者はその実体を暴き、構造の、すり換えの様を敷衍することこそ行為の根源であった、云わば、芸に携わる人間の最低の条件であった。反戦思想は舞い上がりや、空騒ぎや、お祭りでなくこの中に沈潜し日常性に表出される──」(「メモ」高柳昌行)

追伸)
吉増剛造×高柳昌行×翠川敬基の『死人』(1984)も、すごい。

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