現代ダゲレオタイプ展、アトランタ
詳細はまたお知らせします。
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Gearing up
31日は、来週から始まる久保さんのワークショップの準備のお手伝いをするため、横浜美術館で1日を過ごす。
屋外はまだ危険なほどの暑さがつづいていて、8×10カメラを担いで一往復しただけで、シャツがべっとりと肩に張り付いて来る。
最近湿板写真について学び始めてから、ダゲレオタイプについて少し違った眼で見られるようになってきた。
これから湿板写真とダゲレオタイプ、両方を同時に進めていく過程で、うまく言えないけれど何か「言葉」が生まれてくるかもしれない、という予感がある。そして、最終的にはこれら19世紀の技法が、もはや「古典技法」ではなくなる時が来るだろう。(ちなみに、古典技法は英語では”Alternative process”と呼ばれていて、「もうひとつのプロセス」という、見えない空白を指すような言葉の感じがとても気に入っている)
いずれにしても湿板についてはまったくの無知なので、一昨日のように久保さんの仕事を間近で見ることができるのが、とても貴重な時間になっている。
ダゲレオタイプについては、現在臭化のプロセスを全面的に変更しようとしている。
先週TNKさんを撮った時に出たフォグは、古い文献に出てきたflare coatingという記述に特徴が当てはまる。臭素の揮発性が高い事が原因らしい、いま使っている臭素水だと気化のコントロールが難しいので、次の8×10のシリーズに着手する前に、これをDry Quickと呼ばれるハロゲンとマグネシウムの混合体に置き換えることをめざしたい。
(↓写真は、この前作った湿板用のガラス研磨器と銀浴器)
HP更新
相変わらず更新が滞っていたメインのHPですが、本日、大幅にコンテンツを追加しました!
http://www.takashiarai.com/
- 過去の展示やプロジェクトのページ「EXHIBITION & PUBLIC PROJECTS」を追加
- 「WORKS」に近作のFlawless Lakesのシリーズを追加
9月にかけて、旅の写真のシリーズも少しずつ増やしていく予定です。
ダゲレオタイプ制作ヴィデオ
ダゲレオタイプの制作ビデオ(完成版)を公開しました。
Making of Daguerreotype by Takashi Arai from Takashi Arai on Vimeo.
※メインのHP下のメニュー「Works」→「Making of Daguerreotype」でも見ることができます。
素晴らしいヴィデオを作ってくれた石川正史さん、音楽のテストパターンさん、撮影協力していただいたcochaeさん、本当にありがとうございました!
今日のダゲレオ
今日はTNKさんのポートレイトを撮影。
彼は2006年の横浜美術館での滞在制作中に会場に来てくれて、そのときダゲレオタイプのモデルになってもらったこともある。当時18才くらいだったと思うけれど、4年後の今日、「自分の手元に置いておくために」と撮影の注文をしてくれた。とてもありがたい機会をいただいた。ちなみに彼は今、大学で写真の勉強をしている。
ここ二日間、銀板の全体に現れる正体不明のフォグ(もやがかかったような現象)に苦しめられ、出口の見えない闘いをしていた。これまでに発見した対処法をいくつも試してもまったく駄目で、銀の透明な映像はミルク状のカオスの向こうに消え、かすかな気配すら感じられない。これには流石にちょっと打ちのめされる。今日は最後のアイデアにかけてみて、ようやく(ちょっとフォグが残っているけれど)力のある肖像を撮ることができた。今回のフォグは、日本の夏に関係しているようだ。ダゲレオタイプについては、未知のことがまだ本当に多い。
『NHK、鉄の沈黙はだれのために』上梓
表紙/本文写真を担当した単行本、『NHK、鉄の沈黙はだれのために―番組改変事件10年目の告白』永田浩三氏・著(柏書房)がただいま好評発売中です。
10年前、NHKの従軍慰安婦問題に関する国際法廷のドキュメンタリー番組で、政治圧力による番組改変が行われた事件がありました。この本は、当時NHK側の人間だった永田氏が、ことのなりゆきについて、詳細に証言する内容になっています。
表紙と本文の写真は、スタジオに旧式のブラウン管テレビを持ち込み、問題の映像のオリジナルVHS(※放映用に編集される前のラフ・テープ)を流し、画面のうつろいを追いながら撮影した。無編集の映像は息づいているかのように生々しく、感情的であることに驚いた。単なる政治/メディア批判だけでなく、ドキュメンタリーで語られようとした事実と、その受け手である私たち自身の意識について、深く考えさせられる仕事になった。
上梓からひと月余りですがすでに重版とのことです。是非お手にとってお読みください。
Amazon.jp → NHK、鉄の沈黙はだれのために―番組改変事件10年目の告白
「ド」音だけのピアノ・コンサート
ピアニスト/アーティストの寒川晶子さんのコンサートが、横浜山手のユニオン教会で開催されます。
このコンサートでは、全ての鍵盤が「ド」の音に特殊調律されたピアノを使う、まさに未知の予感に溢れるパフォーマンスが行われます。来る9/11、ぜひご来場ください!
※チラシ、チケットなどのヴィジュアルを友人のcochaeさん、写真は私が担当しました。
〜寒川晶子「なるとき」ピアノコンサートシリーズ第4回〜
『未知になるとき』 Becoming the Unknown
2010年9月11日土曜日 16時開演(15時半開場)
会場:横浜ユニオン教会(横浜市中区山下町66−2)
チケット:前売り2,000円(→予約はこちら) 当日券2,500円
主催・出演:寒川晶子
特殊調律:鈴木良
助成:財団法人朝日新聞文化財団
協力:株式会社 橋本ピアノ
粟津デザイン室 斎藤朋(制作協力) cochae (チラシデザイン) 新井卓(写真)
●最寄り駅
JR京浜東北線石川町駅元町口より徒歩15分
みなとみらい線元町・中華街駅元町口(5番出口)より徒歩10分
アメリカ山公園口(6番出口 丘の上までの直通エスカレーターがあります。)
より徒歩10分
*本会場は急激な坂を登り切った丘の上にございます。
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このコンサートでは88鍵あるピアノの鍵盤の音全てをドの音に調律し直して演奏するという。独自のコンセプトと技術をもつ寒川晶子ならではの構想であるが、そこに想像を超えた音の世界が展開されることは間違いない。それを教会という場所で自然環境を生かした時間演出の元に行うという。何という発想!確かなのは、こんな予測を超えたパフォーマンスには滅多に立ち会えないということだ。
一柳慧
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「ド」音のみに調律されたピアノ・・・
確定された「ド」音だけの世界から
未知なる響きを求めて
ただひたすらに音を歩く
そして時々立ち止まる
This piano tuned only to the note “do”…
From a world composed only with the determinate “do”
In search of an echo becoming the unknown
I go on walking through sound
And sometimes I pause on the way
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これまでに実演した「なるとき」
*「音楽になるとき」2008.1.27 *「虚像になるとき」2009.1.21 *「夢になるとき」2009.5.23(いずれも会場、主催は(財)トーキョーワンダーサイト)
●プロフィール
寒川晶子(Akiko Samukawa)/ピアニスト・アーチスト
2001年華頂女子高等学校音楽科卒業
2005年フェリス女学院大学音楽学部をピアノ専攻で卒業
これまでにピアノを福井(旧姓川村)真裕子、小鍛治弘美、川村春海、黒川浩、中川賢一の各氏に師事。
神奈川県民ホール主催<アートコンプレックス>や金沢21世紀美術館主催の公演、三重県立美術館主催の公演などに多数参加し、音楽の表現を通じて未来へのものづくりに入れて活動している。2009年に開催されたトーキョーワンダーサイト主催のフェスティバルでは自身のプロデュース・実演による『虚像になるとき』が最優秀賞を受賞。また、作曲家グループ深新會関西主催の公演では作曲家小西円子氏の新作初演で参加。現代音楽の演奏活動も積極的に行っている。
オルタナビトWS 「デジタルカメラからプラチナ&パラジウムプリント」
The Prints久保元幸さんと、フィラデルフィアの写真センターProject Bashoの伊藤剛さんによるプラチナ&パラジウムプリントのワークショップが開催されます。申込〆切は、今月20日まで。
(以下、久保さんのブログより)
オルタナビトでは9月の伊藤剛さんの来日に合わせて「オルタナビト・ワークショップ・シリーズ」と題して下記の2つのワークショップを開催します。9月11・12日開催の「デジタルカメラからプラチナ&パラジウムプリント」の締め切り日(8月20日)が残り10日をきりましたがまだ空きがあります。皆様のご参加をお待ちしています。
オルタナティブ・ワークショップ・シリーズ : 「デジタルカメラからプラチナ&パラジウムプリント」
オルタナティブ・ワークショップ・シリーズ : 「ガムオーバー・プラチナプリント」
今日のティンタイプ
仕事が一段落したので、午後からティンタイプの試写。
(ちなみに、よく知られた坂本龍馬の写真は、湿板写真とよばれるこれと同様の技法で撮られています)
この前アクリル加工業者に頼んでおいた扁平な水槽(銀浴器)ができたので、それを使ってみる。銀浴が均一にできるようになったので、ムラや表面の皮膜のような現象はほとんど消えた。
湿板はまだ初心者だけど、薬品のリアクションの仕方とか、起こりうる問題点はダゲレオタイプと共通の手触りがある。
目に見える銀と見えない透明な銀、そのあわいに、未だ見ぬ映像が潜んでいる。
つぶやきについて
スタジオで事務仕事と片付けをしてから、夕方都内で打ち合わせが2件あり東横線に乗る。
久々にラッシュアワーの電車に乗ると、ほとんどの人がケータイに顔を近づけて、親指で素早く何かタイプしている。隣の人はずっとTwitterに短いセンテンスを投稿し続けている。いまどの駅にいるか。電車が何分遅れているか。弱冷房車がいかに暑いか。
不特定多数の(実のところかなり特定少数の)誰かに向かって、「いま」をつぶやきつづけたいという欲求はいったい何なのだろうか?僕もしばらくTwitterをやってみて、Twitter俳句みたいなことをしてみたのだが、すぐに飽きてしまい、それに知人たちの、愚痴とも誰かへの暗号とも伏線ともつかない「いま」がうるさくて気持ち悪くてしょうがなくなり、発作的に止めてしまった。
ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン天使のうた』で天使たちは、人々の内面のつぶやきを聞き分けることができた。実際に、モノローグはいつも人の頭のなかにある(「仕事が終わったらラーメン食って、あとDVD返さなきゃな、明日は遅番だから飲んじゃうか」とか)。
でもそのモノローグとTwitterのつぶやきは似て非なるものだ。ヴェンダースの映画で、人々は天使が自分のつぶやきを聞いているなんて全然しらなかった(ピーター・フォーク以外は)。だからモノローグは自我の深く誰もとどかないところに漂っていて、死にたいとつぶやく人がいても、天使たちはただそれを見守ることしかできない。コメント機能なんてない。
ブログもホームページもTwitterも、基本的に個を意味化する道具だと思う。
人が一番耐えられないのは、たぶん、自分がしていること、してきたことが無意味だと感じてしまうことだ。自分を大切に思ってくれる誰かがいても、いつも側にいるというわけにはいかないから、日常のふとした瞬間に出てくる無意味(プチ・虚無感)の脅威にはそれ相応の防御をしなくてはならない。いちばん良いのは、手っ取り早く、外界からリアクションを受けることだ(漫才の「ボケ」の構造)。そしてその対象は特定の誰かである必要はない(そうであれば、直接電話するかメールを送ればいい)。Twitterはその目的に最適化されているように思える。つぶやきという、何年か前まではまったく利用方法のなかったカスミみたいなものを階層化し、表層部分をうまく掬いとってリアクション可能にする=商品化すること。何らかの精神衛生上の「セーフティ・ネット」のようにも感じられる。
Twitterの流行を斜にみて、あるいは新しい技術へのアレルギー反応でこれを書いているのではない。
僕自身は今、FaceBookというソシアル・ネットワークに入っていて、一週間に一回くらい何か書いて=つぶやいている。Twitterほどは煩わしく感じない。なぜかは分からない、頻度の問題なのか?つぶやきの質的、量的、時間的な問題なのだろうか?英語という言葉の違いなのだろうか?
ブログが流行し始めた当時は、まだそれが一次メディアのような立派な情報源として一般に認められていなかった。しかし今では、様々なジャーナリストや政治家や活動家が、ブログを公式なメディアとして扱っている。
確かなのは、はじめとてもフラットな低次のメディアとして登場したいろいろなネット上の仕組みが、ある程度の熟成期間を経て、ごく一部の洗練された特権的な情報と、そうでない有象無象の情報によるヒエラルキーを形づくるということだ。
多分僕にとってのTwitterの気持ち悪さは、すでにそういった特権的なつぶやきが横行し、ユニクロとかアイスクリームの売り上げを左右し、様々な政治運動や宗教、時にはデマに近いような情報の宣伝に利用されているのに、そうした個々の強力な情報の特権性が見えにくいことにある。
ブログやHPであれば、インターフェースやデザインといった構造が、情報の特権性をあるていど表象している。Twitterは適度に匿名であり、無害そうな共通のインターフェースを持っている。またごく短い、フランクなセンテンスは、警戒心を解くのに都合がよいかもしれない。そして、フォローという仕組みは、参加者に適度な自主性、選択可能性の幻想をもたらす。選択しない情報は受け取らない、という幻想。でもTwitterにはきちんと、情報が自然にリークするような仕組みが組み込まれている。友だちの友だちから、風邪をもらうみたいなもの。
Twitterのつぶやきの大半は、おそらく害のない、個々人のプチ・虚無対策にすぎないと思う。その膨大な量の無為かつ無防備なアメーバと、その中に紛れ込んだシェパードみたいな意志的なアメーバ。それらは見分けがつかない。そんなイメージを僕は持ってしまっている。
Takashi Arai Photography: Weblog 






